昨日、お嬢といっしょに、義理&友チョコを作りました。 お嬢に言わせると、なぜか、友チョコは手作りでなければならないらしいのです。ひねた母の目には、それが、ジェンダーの歪みのひとつの形のようにも感じられたりもしますが、まぁ、それはそれとして、季節の風物詩として楽しむのもいいのではないでしょうか。
今年は、ココアパウダー入りのマドレーヌ。なぜか、マドレーヌにこだわるお嬢なのでありました。
下記は、お嬢の部活担任の先生がくれたチョコ。先生もいろいろとたいへんですよね。
職場のお昼のおしゃべりで、「方向音痴」の話題になった。お昼のメンバーの約半数は、方向音痴を自認していて、日常生活で、いろいろと不便な思いをしていた。 で、全体的な傾向としては、男性の方向音痴より女性の方向音痴のほうが多いように思えるよね、って話に。
紫野自身は超絶的な方向音痴なので、そうでないところを見せられると、「きゃあ、素敵っ。ついていきますっ!!」となる。(男性でも、女性でもそうです。ちなみに、うちのお嬢は方向音痴ではないので、どこかに出かける時は、いつも「きゃぁ、ついていきます!」だったりする。) で、それが男性の場合は、明確にセックスアピールとして感じる。自分にない能力を無意識に補おうとしてるんだったりしたら、人間って怖いよね…と思う。
昔、むかぁし、まだ、人間が洞窟に住んで狩りをしていた頃、遠くに狩りに出かけていって道に迷って帰ってこれなかった狩人は子孫を残せなかった。だから、今も「帰ってこれる能力」が選択的に残っている。もしかするとその能力は男性のほうに強くでる性質があるのかもしれないね、と考えるとおもしろくね?って言ったら、けっこう、ウケていた。
日本の軍歌が、なぜあんなに短調なんだ?と言う意見を読んで思い出したのは、内田樹さんの日本辺境論だった。あの主体性のなさとか、被害者的哀愁だとかは、どこか外側に絶対者がいて、自分はその波に揉まれるだけだ、と、普通に刷り込まれてるからだろう。辺境人のメンタリティだな。で、無意識に、理不尽に耐えることは美徳であると思い混んでるんだよな、うん。
だが、しかし、ここまで欧米化しといて、その態度は卑怯だろう。だいたいの場合、運命なんかじゃなくて人の所業である、と気づいているはずなんだから、理不尽と闘わないことは理不尽を助長することを許していることになる。わしらは、もう無力な無辜の民なんかじゃない。従容として従ってやる義理などないってことだ。いつまでも母親の背中の後ろに隠れている訳にもいくまいて。
そんなことを訊かれても (内田樹の研究室)
ぐえぇぇぇ。と、思わず。 資本主義と子育ては相性が悪い…ってことかいな。過ぎたるは及ばざるが如しってか。たしかに「もし、このまま進めば…」とは、よく考えるけれども。
あけましておめでとうございます。
画像は、お嬢の年賀状用下書きのボツ版です。 どう?と訊かれたので、「尻尾が虎じゃないようだが…。」と言ったら、「だって、ムックルだもん。」と。 「いや、それ、分かる人が少なそうだから止めとけば?」
というわけで、今年も肩の力を抜いて、フラフラとやって行きたいと思います。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。
大晦日、親子三人で『AVATAR』 をIMAXシアターで観てきました。3D映画を観るなら、IMAXがお薦めです、やっぱり。ただ、字幕が中空に浮いた感じが最初、慣れなかったので、人によっては酔ってしまうかも。
なんというか、いろいろと思い出すものがあり、でも、それが嫌な感じにならないのが、キャメロン監督かなぁ、と。おもしろかったです。
個人的には、「もののけ姫」で「ラピュタ」かと思ったら、「パーンの竜騎士」で、「火星のプリンセス」で、「Dune」で、「ナウシカ」で、王蟲が怒っていたな…という感想です。うん、そんなキャメロン監督が好きよ。
※ジェイクが「騒がしい子ども」と見なされてたところなんて、ポウルとチャニの出会いを思い出すよなぁ…
※ジェイクがネイティリに所有格をつけて怒られるというエピソードがあったらより萌えたんだがなぁ、と妄想してしまった。
※"I see you” って台詞には、「エイラ」のエピソードを思い出したな。「狩り」の意味づけも。
※最後の最後で「ヤマト(TVシリーズ)かよっ!」と突っ込みそうになった。
『日本辺境論』を読んだ。たしかに、日本人は辺境人かもしれないなぁ、と思った。
で、読んでいる間、ずっと、頭の右の隅のほうでチカチカしていたのは、「あれ?もしかして、女であるということは、ここで言ってる『辺境」とすごく近い?」ということだった。 欧米でも、中華でも、もちろん日本でも、わたしらオンナは、「中央」には居ない。どうしようもなく、辺境を内面化しているのかもしれない。 どっちが鶏で、どっちが卵だか分からないが、わたしらはずっと、未来に何があるか全然分からない状態で、不確かな情報をもとに「子どもの父親」を選択しなくちゃならないという、そういう業をずっと背負ってここまでやってきた。そういう「飛び込む」姿勢を、自分のなかに受け入れやすい状況にある。わたしらは決断できる。信じられないほど少ない情報のなかでも(ほんとかよ?)まるで、辺境人が「学び」を自分のなかに受け入れたように。その論理体系は、男性たちが作り出したそれとは違うけれど、それでも別の体系には違いなかろう、と、わたしには思える。
結論はやっぱりいっしょだったりする。 『辺境』だっていいじゃない。わたしらにしか出来ないやり方でやってみせようじゃないの。それは、もう一つの選択。『中央』には到底できない、オルタナティブなやり方。もしかしたら、「それが正しかったこと」は未来に証明されるかもしれないのだし、ね。
お嬢のリクエストで、みなとみらいに行ってきました。大観覧車にも乗ってきたのですが、上に行けば行くほど怖かったです(苦笑)たしか、昔は、こんなに恐怖感がなかったと思うのだけど、年取ると怖くなるんだろうか…。
ランドマークプラザには、大きなクリスマスツリーが飾ってありました。
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